潜龍舎 / 総合型選抜・学校推薦型選抜対策専門塾

総合型選抜・学校推薦型選抜/大学入試小論文 対策専門塾

「総合型選抜」考

 まず、総合型選抜・学校推薦型選抜について、入試を行う大学側の観点から考えてみよう。一般入試においては規定の試験科目について、一定の点数を獲得した者を合格者として大学はいわば、「合格させなくてはならない」ルールである。したがって、試験によって一定の学力を備えた学生の獲得は可能だろう。しかし、その受験生がどのような人物であるかは不明であり、大学で学ぶ意志や目的などが仮にその受験生にはなくとも、点数を獲得した合格者として大学は当該受験生を入学させなくてはならない。あえて極端に悪い言い方をすれば、大学に入ったものの、特段学ぶ目的や意欲もあるわけでなく、将来の「志」がない者も大学には試験の点数だけで入ってきてしまう。学ぶ意欲や目的がない者を大学教員は教育や指導したくはないし、できない。つまり大学は、基本的な学力に加えて、「志」や学ぶ目的や必然性や意欲のある者を学生として獲得したい。そのために、総合型選抜や学校推薦型選抜が行われているといえる。

 もう一度、確認しよう。大学には、「志」や学ぶ目的や必然性や意欲がありかつ可能な限り優秀な学生を獲得しようという目的がある。この目的を果たすための試験が、総合型選抜である。アドミッション・ポリシーなどを見れば、一目瞭然であるように、総合型選抜は「大学が欲しい学生」を選び抜く試験である。

 

 2020年以降の入試改革とともに、総合型選抜・学校推薦型選抜による入学者の獲得を拡大させる大学は増加してきている。たとえば、文部科学省の最新のデータでは令和4年度の大学入試において、全国の私大の58.7%の入学者が総合型選抜・学校推薦型選抜による入学者である(「令和5年度国公私立大学・短期大学入学者選抜実施状況の概要」より)。全国の大学は軒並み、総合型選抜・学校推薦型選抜による入学者の獲得の割合を増やし続けている。しかし、文部科学省は、2018年以降、大学における入学定員の厳格化政策を実施しており、規定の割合以上の合格者を入学させれば、大学への補助金がカットされるため、大学側はこの対応に追われ、入学定員の厳格化を遂行してきた。

 大学が、(「大学が欲しい学生」を選ぶ試験である)総合型選抜・学校推薦型選抜による入学者割合を増やす一方で、入学定員の厳格化を両立させるためには、どうすればよいのか。答えは簡単だ。大学は一般入試による入学者を制限すればよい。とはいえ、今後の少子化の進行なども考慮すれば、総合型選抜・学校推薦型選抜による入学者割合の増加には限度があることも予想される。

 

 総合型選抜・学校推薦型選抜を受けるならば、受験生の「志」が不可欠である。なにしろ志がなければ、「志」望理由書も作成できないし、志なきままにボランティアなどを行ってもまったく意味がないからだ。「志なき者は、去れ」、これが総合型選抜の本質だ。したがって、現行の受験生が総合型選抜・学校推薦型選抜を受けようと思えば、「志」=「大学で学んだうえで、将来的に何を成し遂げたいと考えているのか」が、受験生になった段階でつねにすでに定まっている必要がある。さらに、そうした「志」が単に口先だけではないことを証明するために、多くの場合、活動実績の報告を求められる。

 将来の「志」も明確であり、その証左となる活動実績も豊富であり、総合型選抜・学校推薦型選抜が有利に働く受験生も実際に多数存在する。しかし、そうではない高校生たちも総合型選抜・学校推薦型選抜を利用したいと考えるのは自然だろう。というのも、年内に合格が決定し、共通テストという難度が高く、非常な努力を要する試験を受験する必要もなくなり、外国語資格試験などの資格を取って、出願書類の作成や小論文や面接などの試験課題に上手く対応しさえすれば、総合型選抜・学校推薦型選抜は表面的には非常にコスパの良い試験であるように「見える」からだ(実際にはそうではない…)。

 

 総合型選抜・学校推薦型選抜による入学者割合の増加や、高校生側の上記のようなニーズ(年内に合格を決定したい、共通テストを受けたくない)も相まって、総合型選抜・学校推薦型選抜の人気が高まってきたといえる。しかし、受験生側がどうであれ、総合型選抜・学校推薦型選抜において本質的に大学が求めてくるのは、端的に述べれば受験生の「志」である。総合型選抜・学校推薦型選抜の人気にこれまで以上に拍車がかかれば、やはり、「志」や将来の志望が定まっていることが多くの高校生に要求されることになる。「志なき者は、去れ」と言われる試験に対応するためには、なんであれ、まずは「志」が求められる。

 

 17,18歳の若者の「多く」が「志」や将来の志望をすでに定めているなんてことは、現実にあるのだろうか。また、そうした若年者に総合型選抜・学校推薦型選抜という試験のために、早期から志を定めるように強いることははたして教育上妥当なことなのだろうか。

 たしかに、何らかの特別な出会いや衝撃や出来事などに遭遇することによって、「これが私の進むべき道だ!」、「これに取り組まなくてはならない!」、「これを絶対に成し遂げたい!」と思える事柄に早期に出会い、自らの「志」を持ち、その道に入り、邁進していく人間も確かに存在する。

 しかし、そうした特別な出来事や体験などとの遭遇がない限り、自らの「志」というものは、一般的には人が生きるなかで、時間をかけて醸成されていくものだともいえる。保護者を含む大人の皆様も、少し考えてもらいたい。17,18歳の若者のとき、あなたは、確固とした「志」のもとに、世のため人のためになる仕事を将来は成し遂げるため、あるいは自身の切実な問題意識にしたがって大学に進学しようなどと考えていただろうか。あなたが17,18歳のときの自分を考えてみれば、「志」を問われる、総合型選抜・学校推薦型選抜がいかに特殊で、難しい試験か、少しは想像できるだろう。

 

 とはいえ、繰り返すが、将来の「志」も明確であり、その証左となる活動実績も豊富であり、総合型選抜・学校推薦型選抜という試験制度が有利に働く受験生は実際に多数存在し、こうした学生を獲得したいと大学は考え、総合型選抜・学校推薦型選抜が実施されている。大学側の意識としては、総合型選抜・学校推薦型選抜は、あくまで特別な入試形態であって、本質的には誰でも受けられる試験ではないと考えているだろう(出願資格や求められる活動実績などを見れば明らかである)。

 しかし、これまでは「特別」な入試形態であったはずの総合型選抜・学校推薦型選抜が特に私大においては入学者の半分近くを占めるような「主流」になりつつあり(=もはや特別ではない)、一般入試の入学者定員を減少させているのであれば、当然、大学進学を望む高校生は、無理にでも志を定め、総合型選抜・学校推薦型選抜に対応しようとしてくる。早期からなんとか「志」を見出そうとして、もがき苦しむことになる(しかし、大人の皆様ならおわかりになるように、人生をかける「志」なんてそうそう簡単に誰にでも見つかるものではない)。さらに、志もなく、あるいは「志」をでっち上げてでも総合型選抜・学校推薦型選抜を利用しようという高校生があふれることになる。高校生のほうがなんとかこの試験に対応しようという、したたかさを見せる。しかしながら、ただの試験のために、まだないのにもかかわらず自身の志をでっちあげたり、「これだ」と思い込んだりする愚かしさ、浅薄さ、判断の甘さときたら、ある意味では試験で不合格になるよりも悲惨だといえる。まったく本質的ではない。さらに、そうした悲惨な事態になることを、高校生のせいにしても酷だろう(あなたが若者の頃を、高校生の頃を思い出すべきだ)。総合型選抜・学校推薦型選抜という試験に対応するために、17,18歳の若者に早期から志を定めるように強いることは教育上まったく妥当ではないといえる。

 

 何が悪いのだろう。総合型選抜・学校推薦型選抜が試験制度として、特別なものではなく、カジュアルなものになったこと、一般入試による入学定員が減少していること、優秀な学生を獲得したいという大学側の思惑、少子化、さまざまな要因があるのだろう。

 「僕(私)は、将来、何をしよう」、「そのために大学で何を学ぼう」、「どうやって生きていこう」、「自分が人生をかけて取り組みたいことは何だろう」、「自分はいったい何に夢中になれるのだろう」、「何のためにこの世に生を受けたのだろう」という問いから「人間は何のために生きているのだろう」、「人生の意味とはなんだろう」、「幸せになりたいけれど、幸せとはそもそも何だろう」といった哲学的ともいえる問いまでの距離は近い。こうした問いへの答えが、自らの「志」につながるものである。しかし、これらの問いに一定の答えを出すことは、大人であっても容易ではない。なぜなら、生きるということは、そのつど明確な意思や目的や「志」なんてものがなくても、そのときの環境や条件やときには直観などにしたがって、はたまた偶然に何らかの行動の選択を行い、その後の人生のなかで、その選択を後から肯定したり諦念を持ったり、後悔したりできるようになることの連続に過ぎないともいえるからだ。そもそも人が語る「志」などという概念そのものが後付けの、でっち上げに過ぎないかもしれない。

 もしかしたら、厳密に考えるべき問題ではないのかもしれない。「志」でなくとも、大学で学ぶ目的や大まかな目標のようなもの、憧れや希望、そういった緩やかな志向性にしたがって、大学への進学を目指せばいいのかもしれない。しかし、志望理由書課題を見たり、面接における質問などを聞く限りでは、大学教員はかなり本質的なことを受験生に聞きたいらしい。審査官である大学教員の意向も理解できる。どのような目的、関心、将来の志望、切実な問題意識にしたがって、わざわざ大学で学ぼうというのか、大学教員は知りたい。そして、その説明のロジックや志望の「たしかさ」を突き詰めれば、それは「志」と呼ばれるものになるだろう。さらに、この試験はそういう「志」のある受験生を獲得することが目的だ、と大学教員は考えている。

 

 総合型選抜・学校推薦型選抜という試験が、早期から志を定めることを高校生に対して強いることの問題や危惧を共有してもらえたらうれしい。こうした危惧を持ちつつも、現実には実際の試験が毎年遂行されていく。それでは、弊塾潜龍舎はどうするか。潜龍舎は、今後、総合型選抜・学校推薦型選抜という試験の対策にあたって、生徒の「志」がすでにあることを各種対策講座受講の条件としたい。ない志をあるように見せかけたりすることは言語道断であり当然のこと、「志」の重要性は語っても「志」を持てという指導を行ったりすることは一切しない。すでに「志」のある生徒様のみをサポートしていく(というか、これまでも「志」のある生徒様しかサポートできなかった。「志」のない生徒は、まずやはりそもそも志望理由書が書けない、対策が進められない。だから入塾を断ったり、退塾していただいた)。総合型選抜・学校推薦型選抜は誰にでも受けられる試験ではない。「志なき者は、去れ」。そして、一般入試の募集定員の削減には強く反対していきたい。また、総合型選抜・学校推薦型選抜は「志」を備えた受験生のための、特別な試験であるべきだ。

 

 と、大上段に構えて書いたところで、これではほとんど何も表明していないに等しい。現状の追認でしかないだろう。総合型選抜・学校推薦型選抜という試験が、早期から志を定めることを高校生に対して強いることについては、もう少し考えてみる必要がある。